みんなのエンタメレビュー

感動した映画や面白かったドラマなどを掲載しているブログとなります。

洋画「哀愁」のウィヴィアン・リーは動く芸術作品

スポンサーリンク

あなたが良いと思った洋画を教えてください

ウィヴィアン・リー主演「哀愁」です。

なぜ、その洋画が良いと思ったのでしょうか?

モノクロの哀愁のウィヴィアン・リーが極めて魅力的なのは、あれは彼女の本質なのであって、単なる演技ではなかったという意味がこめられている気がするからです。あそこには、彼女の未来も予知できていたのではないか……と言う意味でです。 彼女は、「哀愁」のマイラ、「アンナ・カレーニア」のアンナ、「欲望という名の電車」のブランチ、みんな自らの心に正直に生きようとして、精神を病んで破滅していった女主人公……いわば、現実不適応の主人公たちです。 なぜ、ビビアンが、こういう女性に惹かれていくのかは大変興味深いものがありますが、人間、形而上学的に生きようとすると、こういう運命に人生を絡めとられることになります。

 

そこから、小説が生まれ、戯曲が生まれ、詩が生まれるのでしょう。 厳しい現実の前に、誰でも一歩道を誤れば、運命に絡め取られるのです。美しいものは、形而下的現実の草刈場になりかねません。 さて、ここからが映画「哀愁」のことに入っていきます。よく、この映画は「メロドラマ」だと言われます。ウィヴィアンが、一年前に出演して、オスカー主演女優賞を取った[風と伴に去りぬ」のスカーレットという強い女性に比べて、「哀愁」の踊り子マイラは、どちらかと言えば自己主張をしない弱い女性というイメージで捉えていると思うのですが、その対比は、余り当たっていないように思えます。 強いていうのならば、スカーレットは現実思考の強い女性、マイラは、ナイーブで精神志向の強い女性なのだろうと思うのです。

 

スカーレットは確かに強い女性ですが、こと精神性という意味では、余り感じられません。後年、ウィヴィアンも、「哀愁」という作品を好きな作品に上げていたことを考えると、このモノクロの一見地味に見える作品が、彼女の心の中にあるヒロイン像と重なったと考えられなくもないということになります。 私はそういう視点から、この[哀愁」という作品をみていきたいと思います。この作品の一番の骨子は、私は「反戦映画」だということです。その次に、イギリス社会における身分格差みたいなものも伏線としてあるように思えます。伯爵家は、普通は踊り子とは結婚できない……愛し合っても、それなりの手続きが必要になる。

 

それでも、愛する二人は、結婚までたどり着こうとした。しかし、結婚式は時間が間に合わなかったのです。そして、翌日、ロイに召集命令がきてしまう。一つひとつ、運命が狂い始めます。それも、戦争故でしょう。戦争がなければ、結婚式は翌日果たせたでしょうし、マイラが、この愛にすべてを賭けきってしまわなければ、バレー団の規約も破らなくて済んだでしょう。バレー団のキローワ女史が、もう少し寛大であったら、不況風の吹く戦時下にマイラをバレー団から追い出し、孤立させるようことにはならなかったでしょう。規則とはいえ、同性の先輩として、そうした配慮はできなかったのかということも引っかかります。 そして、運命は、若く純真な踊り子マイラの身の上に、マイナス現象として降りかかってくるのです。

 

そうして、悲劇は起こったのでした。あるいは、戦時下、こうしたことは珍しいことでもなく、多くのカップルに起きていたのかもしれません。現実に、私の叔母も海軍の恋人を戦地で失っていましたし、夫の叔母も海軍のフィアンセを戦争で喪っていたそうです。私の母は、公務員だったが、給料のすべてを老いた両親のために生活費に入れていました。「青春がなかった。」それが母の口癖でした。 私の母世代の人は、ほとんど不本意な結婚を強いられています。ここにも、戦争の影はあります。

 

さて、このあたりで、「哀愁」の大まかなストーリィの概要を説明しましょう。原題は「Waterloo Bridge」と言います。 映画は、1939年9月3日、英国政府が、第二次世界大戦が始まったというニュースがロンドンの街に流れる。 そして、初老の陸軍大尉のロイ(ロバート・テイラー)が車に乗り込み、運転手に「ウォータル橋駅へ」と告げる。が、 「ウォータルー橋で停めてほしい」と言う。車を降りるティラー。 欄干からテムズ川を眺め、内ポケットトからビリケン人形を取り出し見つめるロイ。幸運のお守りとしてマイラがくれたものである。(このビリケン人形は、マイラとロイの運命の駒回しのように、たびたび映画に現れる。

 

あるいは、この人形をロイに与えたために、ロイは戦死をしないで済み、マイラ自身の人生は破滅していったのかもしれない。)そこに、マイラの声がかぶせられ、ロイの回想シーンに変わる。 ロイの顔が若返り、第一次世界大戦時の回想が始まる。ウォルタルー橋にいたロイは独軍の空襲に遭い、仲間たちとはぐれてしまったマイラと防空壕に逃げ込み、二人の間に恋が芽生える。(これが単なる恋で済んでいたら、マイラの悲劇はなかったかもしれない。極限まで愛してしまったがゆえに、道は行き止まりでいってしまった。) マイラは、バレー団に所属するバレーリナーで、ロイに踊りを披露すると言うが、ロイは大佐と食事だからいけないと残念がる。

 

しかし夕方、オルガ・キローワ女史の指揮するダンス団のダンスをロイは見に来てしまったのだ。夕食を共にしようという誘いの手紙をロイは渡そうとするがそれをキローワ女史に見つかってしまい、断りの手紙を書かされてしまう。 ロイは残念に思いながら帰ろうとするが、マイラの親友キティが引き止め、無理やり断りの手紙を書かされたことと、どこで待ち合わせるかを問う。 夕食のダンスクラブ。ロイはマイラと楽しい一時のことを話すが、ロイはマイラがどこか未来に期待していない影を持つ女性だということに気付く。そしてクラブで演奏される蛍の光をバックにダンスを踊る二人。

 

ロウソクが消えていき、暗闇のなかロイとマイラは情熱的なキスをするのだった。 ロイはタクシーを拾って結婚を大佐に許可してもらおうとする。しかし大佐は「ロイの叔父結婚の許可をとれば自分も許可しよう」と話す。ロイはすぐに叔父に会いに生き叔父から激励され結婚を許可してもらう。若い二人はすぐさま結婚式をあげに教会へ行くが、神父からは午後3時以降の結婚式は法律で禁止であると言われ、明日の朝11時まで延期されることとなった。

 

ところが、結婚式は挙げることができなかった。ロイが、急に前線に出発することになったからだった。ここから、少しづつ、マイラの人生の歯車は狂い始める。 禁止されていたにもかかわらず、ロイを見送りに行った事で、マイラはキティと伴に、バレー団を首になってしまう。仕事を探すが、戦況不況下仕事は見つからない。戦況の悪化にともなって、マイラは体調を崩し、この間キティが体を売って薬代などを捻出していた。この間の生活は苦しく、キティにだけ頼るわけもいかず、マイラも娼婦となってしまう。 終戦となったある日、帰還兵めあてにウォータールー橋駅で客を取ろうとするマイラは、列車から降りてくる帰還兵の群れの中にロイを見つける。

 

ロイは歓喜の声をあげるが、マイラは戸惑いを隠せない。このあたりのマイラの心理の揺れ動きを表現するビィビィアンの演技の機微は、実に巧みである。 この後、マイラはロイの実家に招待され、地元にも紹介されるが、受け入れてくれるロイの母の優しさに、マイラはいたたまれなくなって、マイラは、ロイに置手紙を残し身を引いて去ってしまう。そして、二人の思い出のウォータルー橋でトラックに身を投げげてしまうのだった。 映像は、また初老となったロイと幸福が来るというビリケン人形に戻る。そして、思い出の蛍の光のメロディが、そこに被せられて、物語は終わる。

 

この「蛍の光」はロイ大尉の出身地スコットランド民謡です。映画「哀愁」の中では、ワルツとされたこの「蛍の光」のメロディが、暗示的に映画の縦軸を貫いていて、運命というものの重さと、はかない私達の人生を悟らそうとしているのでしょうか。 最後に一つだけ真実があるとすれば、マイラの死は、最後までロイを愛したという証であったということです。

 

そのことは貴重なことであり、現実ではほとんど起こりえないことを知っているから、人々はこの物語に感動し、涙を流すのでしょう。 ただ、ここに戦争がなかったら、もう少し時間があれば、二人の人生は変わっていただろうという反戦の意味が、私には被さってきます。あるいは、この物語は、愛というのは、こんなにも厳しい命題があるのだということを私達に突きつけているのかもしれません。

その洋画がオススメだと思う方は誰?

私は、この映画をいわば反戦映画として捉えていますので、やはり、戦争は女性や子供たち社会的弱者と言われる人々に致命的な傷を負わせるものだということを訴えたいと思います。従って、女性たちにこの作品を勧めたいと思います。 それと、映像画面を歩くことすら訓練されないまま、女優と称している近頃の自称女優と名乗っている方々に、一度見ていただくことをお勧めします。

これからその洋画を見ようと思っている方へのアドバイス

今時新鮮なモノトーンの映像と、歩き方、物腰ひとつ、バレーと王立演劇学校にて鍛えられたウィヴィアン・リーの演技の完璧さを味わってほしいと思います。容貌、知性、気品それでいて、どこか、原初的野生という相容れない気質を備えたウィヴィアン・リーというミステリィアスな女優の存在は、今後、二度と現れないでしょう。

 

もしかしたら、インド人との混血とも言われているウィヴィアンの血筋にも関係するのかもしれません。東洋と西洋の混血……それゆえの神秘的魅力に釘付けになります。後年、彼女自身は、相対する気質に苦しむのですが…。どなたかが、歩く芸術品と表現されていましたが、まさしく、その通りです。

 

カンタンな自己紹介・プロフィール

女 66才 ライター 夫と二人暮らし 東京育ちで現在は広島県居住。若き日、手描き友禅を習いに京都まで行き、その後、日本画に触れ、通信で芸術大学芸術学部に入りました。美術史を学び、美術の輪郭が明確に分かってきたことが収穫でした。ゴッホに惹かれます。